オペラは永遠に
何年いや十数年ぶりだろうか、浅草の町を訪れるのは。浅草寺に近い浅草公会堂へオペラを観に行った。この2年ばかりですっかり観光客の姿が消えたと言われている浅草の町にも、この日は見るからにそれと見分けがつく大勢の人の姿があった。
浅草公会堂と聞いて思い浮ぶのは、所謂「和もの小屋」というイメージである。歌舞伎・日本舞踊・新舞踊・民謡等々の固有の文化に根差した芸能ジャンルを専らとする劇場という印象が、われわれ舞台裏方には強いのである。そんな劇場でのオペラ公演というので、興味津々であった。
演目はジョルジュ・ビゼーの『真珠採り』である。初めてオペラとして観る作品である。第一幕で歌われるテノールの有名なアリア「ナディールのロマンス」の他は聞いたこともなかった。しかしビゼーの傑作オペラ『カルメン』をもっとも好きな作品のひとつだと密かに考えている者としては、未知の音楽への期待に胸をときめかせながらの観賞であった。
期待は裏切られなかった。曲はメロディアスでいてドラマティック、音楽に身を委ねていると心地よい幸福感に酔った。弦楽器を主とした美しい旋律に、行ったことはないセイロン島(現スリランカ)の海岸で椰子の葉影に横たわって海風に吹かれているような感覚に引き込まれた。さすがビゼーだと拍手を送った。
登場人物はソリスト4人のみであるが、さすがにそれぞれ素晴らしい張りのある歌声で聴衆を魅了した。ズルガ(真珠採りの頭領)の須藤慎吾は、舞台に現れただけでその存在感で聴衆を引っ張り、ドラマティックで艶のある歌声が素晴らしい。そして、ソリストとしては唯一の女声レイラ(巫女)の西正子は可憐ななかに内に秘めた強さを歌声で見事に表現していた。テノールの又吉秀樹(ナディール)、バスの杉尾信吾(スーラバット)の歌声には若々しさが溢れていた。又吉秀樹の歌う「ナディールのロマンス」、この一曲を聴くだけでもこのオペラを観賞する価値があると思った。
ただ、残念だったのは舞台の空間の作りである。舞台上手にチェンバーオーケストラが指揮者の仲田淳也を囲むように並び、舞台中央と下手の三分の二が演技のエリアとなっていたため、客席に届く音量のバランスに部分的な物足りなさを感じた。音につつみ込まれるようなオペラならではの陶酔感をもっと味わいたかった。
この公演では全幕舞台上に装置はまったくなく、舞台奥のホリゾント幕に投影される映像でイメージや場所・時間そして日本語訳の歌詞が示されるのであるが、舞台表現としては限界がある。平面的で立体感に欠け、奥行きを感じられない生彩のないものであった。 舞台裏方という立場から、少し批評めいたことを言わせてもらえば、ヴィジュアル面でもう少し工夫がほしかった。先にも書いたが、装置は無くホリゾント幕に投写される映像のみ。照明も全体に平板でアクセントがなく立体感がなかった。おそらく演出的照明プランは施されていなかったのだろう?序でに記すとフォローピンの技術も少々残念であった。そして衣裳、この作品の舞台であるセイロン島(1800年代半ば)という設定は微妙で難しいと思う。時代考証という程のものがあるか否かは定かでないが、ソリスト4人はもっとそれぞれが際立つ輝きの感じられるものがほしかった。とは言え、あれ位の光量の照明ではそれは望むべくもなかったという気もするが…。コロスのマスクは面白い試みだった。
この2年以上に渡る新型コロナ禍の影響で、舞台業界も壊滅的な打撃を蒙ってきた。公演中止や延期、無観客での公演等々によって舞台業界の仲間らは不安と絶望に沈んできた。国からの支援も少なく、新しい舞台公演を企画制作しようにも予算が捻出できないという状況が続いている。そんななかでも何とか舞台芸術の灯を絶やさないように、限られた予算のなかでできることをと、いろいろな試みが続けられている。今回の公演もそんな厳しい状況下であることは百も承知の上であったろう。それでも敢えて先を目指して一歩一歩と歩き続ける姿勢に大きな拍手を送りたい。
憧れのミラノスカラ座・パリオペラ座・MET等々でも様々な工夫をしている。苦難のなかでもオペラは永遠に歩むのだ。
筆者プロフィール
京都市出身。長年舞台関係の仕事に従事。